医師たちの科学博物館で
日本を守るのに右も左もない | 近代科学の成立過程4~戦争や市場拡大とともに発達した西洋医学~
1.大学医学部の形成とその特異性コメディになる方法16世紀文化革命は、医学の世界において、この差別構造(手作業に従事する徒弟制度で教育された外科医や理髪外科医に対する大学教育を受けた医師の蔑視・差別)それ自体とその構造に依存した医学・医療のあり方を下から打破しようとするものであった。注)「外科医」とは手作業に従事する「医療職人」を、「理髪外科医」とは整髪や洗顔だけでなく外科医の下で同様の医療行為に従事するものを示し、血で手を汚す外科処置は忌むべき所業として蔑まれていた。
中世前期(11世紀半ばまで)の西欧社会における医療は各地の修道院にほそぼそと伝えられた医学の断片や、ローマ時代の書に記された医学と薬学の知識に基づく修道士の実践を別にすれば、実質的にはガリヤやゲルマンの諸民族に伝承されていた土着の、そして呪術と地続きな医学知識に支えられていた。民衆に対する医療サービスの大部分は呪術師や土地の古老や助産婦たちによって担われていたのである。キリスト教内部においても、聖遺物による奇蹟的治療といった非合理が公然と語られていた。
11世紀後半には医学に限らずギリシャの哲学や科学―とりわけアリストテレスの著作―が多く翻訳され、それらの書籍を通して古代ギリシャの医学が、自然学や哲学とともに西ヨーロッパに知られるようになった。この過程は「12世紀ルネサンス」と呼ばれ、高等教育機関として創られた大学により新知識が集約・保存・継承されることとなるが、このようにして始まった学問は現実との格闘から産み出されたものではなく、古代文献の中に見出された典籍科学であったばかりか、大学自体が知的労働と肉体労働の分離のうえに成り立ち、「自由学芸」を尊び「機械的技芸」を蔑む古代以来の知的風土に根ざした、出発点から重大な問題点を抱え込むものとなっていた。12世紀以降に形成された大学・医学部は神学部・法学部とならんで設置され、医学が神学や法学と並ぶ理論科学として位置づけられ、医学教育も同様に古代文献の講釈に基づいておこなわれていたのである。(古代ギリシャの医学は、哲学と異なり、経験主義的な側面を有するものであり、医療は半ば職人的に習得される技術であったにも関わらず。)
また、医学部は神学・法学部に比べると下位に位置づけられており、神学や法学において妥当とされていた真理概念や教授方法を医学にも適応することで、威信を上位のそれに近づけようとしていた。それは「疾病の原因」を思弁的に探求する姿勢として現れ、権威ある文献を根拠とした講釈や討論が学問の中心と化し、医学の「スコラ学」化が進み、実践や臨床がさらに軽視されることにつながった。
大学で外科学を講ずるにしても、それは「理論」としての外科医の知識であり、現実の治療や手術の作業―患者との接触―は、もっぱら外科職人としての外科医や理髪師に委ねられたのである。
【中世の大学の様子】
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古代ギリシャの医者たちは、科学よりも「神」に近い存在であり、その治療も呪術的な要素が含まれていた。中世初期の医者も同様である。
人間の身体に対する認識も、後に登場するレオナルド・ダ・ヴィンチのように解剖という手法を使って論理的に理解するものではなく、それぞれの医師の観念に基づくものである。その最たる例が、ガレノス、アリストテレス、ヒポクラテスらが認識していた「四要素」・「四体液説」であった。
もちろんこれは現在の科学では誤りであり、それは後々の科学者たち、レオナルド・ダ・ヴィンチ、パラケルズス、ヴェザリウスらの科学的実証によって覆された。そして中世以降、「神」の座にいた超自然的存在であった医者たちが、人間社会の生活の中に降りてくるのである。
2.ボローニャとモンペリエとパリ誕生日の殺人事件をホストする方法それでもイタリアでは―サレルノ医学校の影響もあって―医学理論だけではなく医療実践もそれなりに重視されていた。とくにボローニャ大学では、外科をカリキュラムに取り入れ、当初から外科を重視し、何人もの優れた外科医を排出している。
【サレルノ大学】
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また、西ヨーロッパので大学の形成に先行するモンペリエでもイスラムやユダヤの医学の影響を受け、外科学は公式のカリキュラムには無かったけれども実際には教えられ、臨床の実習も義務付けられていたのである。一方で、西欧キリスト教社会においてもっとも権威を有していたパリ大学では、13、14世紀を通して外科学が教えられることはなかった。「手仕事としての外科の医学部からの分離は十四、十五世紀を通して厳格に維持されていた」ために、実務者にとって必要とされるスキルを医師から奪うことになったのである。パリ大学からも、その後パリ大学の機構と教育を元に作られたオックスフォードやケンブリッジからも傑出した医師は誕生しなかった。
3.中世後期の医療と医学
とはいえ、大学の出現からこの時代に至るまで、大学教育を受けた医師はきわめて少ない。都市人口1万人に対して数名程度であり、つまるところ彼らは王侯貴族や都市の有力者や裕福な商人といったきわめて少数の支配層のための医師であり、圧倒的多数の大衆にとっては無縁な存在であったのである。
したがって、市民は広範に民間医療に頼っていたのであり、そこには女性が医療・薬剤の従事者として大きく携わっていた。そのことは当時の文学作品から読み取ることが出来る。ちなみにこの時代に妖術に手を染めたとして告発された被告の八割が女性(魔女)であり、それはその女性たちが助産婦や祈祷師として民衆に影響力を有し、教区司祭のライバルになったからだと指摘されている。助産婦の営業には地方の仔細のライセンスを要する地域もあったが、それは医療の知識を問題としたからではなく、むしろその女性の道徳的・宗教的堅固さを審査するものであった。ひとつには、新生児の死亡率が高かった時代であり、不在の司祭にかわって助産婦が緊急の洗礼を施さなければならない(そうしないとその児は永久� ��天国に行けないと考えられ、現実にキリスト教徒の墓地に埋葬されない)場合があったからであり、いまひとつは、逆に助産婦は堕胎や間引きの幇助者になりやすいと見られていたからである。
フランスでは大学から締め出されていた外科医は独自のギルドを作り出し、13世紀末には大学医学部に対抗して「サン・コーム学院」を組織、自前の教育とライセンスのシステムを作り上げた。無統制な医療行為の蔓延の規制に寄与し、14世紀後半には国王に公認される期間として許認可権も取得する。他方で、理髪外科医の組合もほぼ同時期に形成され、外科医に邪魔されること無く治療を施すことができる判決によって組合の独立が認められた。
その結果、14世紀末には、大学医学部の少数エリート医師、サン・コーム学院で教育された比較的少数の集団としての外科医、徒弟制度で技術を身につけ修行を積んだ理髪外科医、そしてその下には薬種商、さらに無資格の医療従事者というヒエラルキーが形成されたのである。
しかし、この時代の医療の最大の問題は、医師の絶対数の不足やその偏在ではなく、そもそもが医学・医療がまったく無力であったことにある。16世紀に医学を学んだファン・ヘルモントの次の回想は強烈で興味深い。「あらゆる病気について巧みに論ずることは出来るようになったが、ただの歯痛や疥癬すら根本的に治療できないのであった。・・・・私は医術とは単なる作り物、詐欺ではないかと思った。」
この実情は大学の外の人間にも見透かされていたのである。すでに14世紀にはペトラルカが医学にたいする不信を露にしている。16世紀初頭に書かれたと思われるレオナルド・ダ・ヴィンチの手記には「健康、それは汝が医者から身を守れば守るほどうまく行くであろう。医薬の調剤などは錬金術の類にすぎぬ」と辛辣に記されてる。
医学の変革への始動は、実際に患者に日々接している外科医や理髪外科医の側からしか期待できなかったのである。外科医と理髪外科医の関係について言うならば、外科医は手作業を理髪外科医に押しつけみずからは監督する立場に立つことで、おのれの社会的地位を高めようとする傾向にあった。
スコット·パターソンは、何歳ですか?4.黒死病のもたらしたもの
【ペスト流行の様子】
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医療従事者のあいだの中世以来のこの力関係に大きな影響を与えた要因のひとつは、1347年から51年にかけて猛威を振るった黒死病(ペスト)の流行であった。この大流行に対して、500年から2000年も昔のアラビアやギリシアの理論に依拠し臨床を軽んじていたそれまでのアカデミズムの医師はまったくの無力であっただけでなく、ほとんどの医師は逃げ出していたのである。
それにくらべて主要に実践と経験から医療を学んでいた外科医や理髪外科医は、この新しい事態にそれなりに果敢に対処することが出来た。それは、腺腫の切開による治療や、腺ペストと肺ペストの症状が明確に書き分けられてい点からもかなり正確であったと見られている。こうして黒死病は「外科学の興隆」をもたらした。15世紀から16世紀にかけての戦争の変化、そして16世紀の梅毒感染の爆発的拡大も外科医の台頭を後押しした。この時代には、重火器の登場によって戦争の様相が一変していた。銃弾や砲弾による火傷をともなう深くて複雑な傷はこれまで知られていなかったものであり、16世紀になって急速に広がった梅毒と同様に、古代人の書物で育った大学の医師たちには手に負えない問題であった。梅毒の治療も理髪外科医に委ねられていた。ペストの場合、町から逃げ出すことも出来ず劣悪な環境で生活している下級階級のほうが感染率が高かったが、梅毒では、上流階級の人間のほうがより放縦な生活をしていただけ患者の比率が高かった。そして梅毒患者の貴族たちが理髪外科医の治療を受けたこともまた、理� �外科医の社会的地位を高めることにつながったようである。
中世後期のパリ大学のスコラ医学は、教会の影響力を維持する機関として位置付けられ、哲学と倫理学の実践を標榜し、上流階級の医療需要を満たすことにより、医学領域でのキリスト教のヘゲモニーを確立しようとしたのである。
こうして、権威主義が支配し経験からは学ぼうとはしない大学医学部をしりめに、「無学」で先入観なく実際の医療活動に従事している外科医や理髪外科医のあいだでは臨床経験が蓄積されてゆき、その乖離状態は、ルネサンス期にいよいよ度合いを強めて行ったのである。
15世紀初頭までに、黒死病の餌食となったのは、全ヨーロッパ人口の4分の1をこえるだろうといわれる。これに加え、天候の悪化から出生率は低下し、結局、全人口の3分の1以上が短期間のうちに失われたことになった。これだけの人口激減は、必然的に社会を大きく変える。都市の場合、生き残った幸運なものは貴族の財産を受け継いだので、「にわか成金」が続出した。農民についても領主間の農奴の引き抜き合戦が始まる。その結果、農奴の地位や待遇はどんどんよくなっていった。
市政も、まるで経験を積んだことのない新参者の手にわたるようになる。古い権威や秩序は完全に揺らいでいき、貨幣経済(市場化)が広まることとなる。
5.ヒエロニムス・ブルンシュヴィヒ外科と外科医が下級、医学と医師が上級というこの差別構造は中世から近代にかけてヨーロッパ全土に行き渡っていた。もちろんドイツでも状況は変わらないが、有力な大学医学部は存在せず、アカデミックな医学教育は国内では得られなかったこともあり、15世紀後半から実践を主としたドイツの外科医の出版物が広まることとなった。
なかでも、ヒエロニムス・ブルンシュヴィヒによって書かれた『外科学書』は1497年に出版され、大学教育とは無縁な徒弟修業で教育された自分たちのギルドの内部で語られていた技術や理論を俗語で執筆した印刷書籍として、外国語にも翻訳されインターナショナルな影響力を発揮したのである。
この書は、徒弟のための手引きであり、一般的処置の概説という性格が強い。また「この分野で印刷された最初の挿図付教科書」としても歴史的に重要である上に、出版が営業的にも成功したことにより、その後、たてつづけに医学や薬物学や蒸留法の書物が出版されることになる。
1517年にはゲルスドルフ著『戦傷外科書』、翌1518年にはフリース著『薬剤総覧』が出版されている。いづれの著書もシュトラスブルクから出版されており、その後、1530年にはオットー・ブルンフェルスの名著『本草写生図譜』が産み出されている。
ペストや梅毒に大学の医学が全く無力であったこと、そして重火器の登場で戦争の様相が一変し、外科医・理髪外科医が銃弾や砲弾による複雑で大量の戦傷に対処したこと等を通じて、中世大学医学の無力さがあきらかとなり、西洋の医学は急速に変化して行った。
このような西洋の医学の変化・発達は、戦争と市場拡大によって発達していったと言っても過言ではない。
もともとペストはアジアで猛威をふるっていたが、東方貿易に従事していたイタリア商人らが感染し、イタリア・フランスの港に入り(1347)、1348年には全西ヨーロッパに広まった。貿易の拡大とともにペストも拡大していった。
大流行に至るのは、ヨーロッパの市場化が原因。市場化で都市間の人の移動が活発化、都市は人口が集中し排泄物とゴミで不衛生な環境となっていた上、都市化の進展によりネズミの天敵がいた森が失われ、ネズミが繁殖しやすい畑となっていた。
また、軍事行動による人の大量移動も流行に拍車をかける結果となった。
つまり、西洋医学の発達の契機となったペストの流行も、市場拡大と戦争によるものだったのである。
【ペスト経路】
当時の市場の中心地であるイタリアからヨーロッパ全土に広がっていったことがわかる。
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西洋の医学分野も、私権拡大を実現するために行われる戦争と市場拡大に欠かせないもの、つまり戦争と市場拡大の弊害(重火器による戦傷やペスト・梅毒などの伝染病)が蔓延したこそ、発展を遂げてきたのです。言い換えれば、金貸しの私権追求期待に対する戦争と市場拡大の補完的役割を西洋医学が担っていたということになります。
その後、ルネッサンス期のヨーロッパでは、イスラーム世界の、アラブ語の医学書籍が欧州の言語に翻訳され、研究され始めた。それにつれて、人体に対し(部分的ではあるが)実証的研究がはじまり(→実証主義)、それまでの医学上の人体知識が徐々に否定されはじめ、近代科学としての医学が萌芽することになる。
次回は、引き続き『十六世紀文化革命「第2章外科医の台頭と外科学の発展」』から15世紀以降、医学の発展歴史の真相に迫っていきたいと思います。
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